荒海や佐渡に横たふ天の川
高校の時に、奥の細道で出てきた松尾芭蕉の句だ。
この句がわたしは好きだ。
何か魅かれる。そこで勝手な解釈を試みた。
芭蕉は自分のやりたい「俳句の旅」を始める。
やろうと思えば誰でも出来る旅だ。しかし、俳句の旅を続けるには生活費がいる。
一体この生活費をどうやって工面したのだろう。
旅先で句を披露し、カネ持ちの豪商等から心づけを貰っていたと聞く。
長い月日、はたしてそれで旅が続くものだろうか。
ネットもない時代に、芭蕉の名はどれほど知れ渡っていたのだろう。
現代でも好きなことに挑戦する人は沢山いる。
歌い手になって成功したい。スポーツでオリンピックに出たい。
役者になって有名になりたい。会社を起こし成功したい。そんな人は昔も今も変わらない。
挑戦するのは素晴らしいことだが、その間の生活をどうするかだ。
人気の芸能人になれたり、評判の役者になれたら良い。
なれなかったとしたら、どこまで頑張ればいいのだろう。
その間の生活はどうするのだろう。
努力はどう評価されるのだろう。
芭蕉も同じで、俳句の旅に出た。生きて行くための生活費は常に頭にあった。
文学に理解あるカネ持ちに出会い、それなりのカネを貰えた日々はいい。
しかし、もらえない日もあったと思う。いや、その日が多かったのではないだろうか。
私は思う。
芭蕉は、「俳句の旅」に伴う「カネ」の感覚が希薄だったような気がする。
好きなことをして生きて行くには、言いたくないが「カネ」が必要になる。
生きる=カネという現実を、身を以て感じながらの旅ではなかったろうか。
芭蕉にとってのこの旅は、口には出せない辛く孤独な苦痛の日々の連続だったような気がしてならない。
日々旅にして旅を栖とする、芭蕉の旅は一般の人には羨ましく映っただろう。
弟子を持つ、俳人としての芭蕉は、途中でやめることは出来なかったのだ。
私がこの句に魅かれるのは、彼の生き方だ。
引き返すことのできない、人の理解を超えた男の世界を感じてしまう。
だからだろうか、芭蕉の句には影を含んだ負の余情を感じる。
荒海や佐渡に横たふ天の川
この「荒海」には、立ちはだかる生の苦と、それに伴うきびしく辛い孤独感を感じる。
佐渡に横たふ天の川は、膨大な「俳句の旅」の自然の畏敬とよろこびがある。
やはり一般の人には出来ない人生の旅たったのだ。
さて、ここまで書いて、突然ヘミングウエイが頭に吹っ飛んで来た。
「キリマンジャロの雪」の一節が浮かんできたのだ。
「キリマンジャロは雪に覆われた標高19710フィートの山だ。・・・その頂にほど近いあたりにひからびて凍った豹の死骸がある。豹が何を求めてそれほどの高さまで登ったか、説明できる者はいない。」
この有名な一文の中の豹と芭蕉がダブって見える。
山麓には食料になる餌がたらふくあるのに、なぜ凍てつく山頂を目指すのか?
男ってそんなところがあるんだよね。ひとり心細くなって口笛を吹くんだよね。
そんな生き方をしている男が、日本のどこかにまだいるだろうね。
そんな男って、どんな目をしているのだろう。